令和四年新春を、皆様ご平安にお迎えになられたことを、心よりお祝い申し上げます。
年を送り、年を迎える楽しみは、過去から未来へと続くときめきを覚え、新年を言祝ぐ行事の中におのずと身のひきしまる思いを寄せます。
とりわけ本年の新春は、「太元帥御修法」奉修の年であります。
奉修の縁故につきましては、「国宝醍醐寺文書聖教」140函11号一巻に承和七年(840)法琳寺常暁は、自ら請来した玉体安穏を掲げる太元厳修の勅許を受けた。
太元法は鎌倉時代より醍醐寺理性院で相承されたが、その由来から厳修の詳細を記した本書は時代をさがる永享7年(1435)に書写されたものである。
今ここに、あらためて奉修の旨趣及び由来書をしたためるならば、
「太元帥御修法奉修の旨趣及び由来書
夫れ太元帥御修法は鎮護国家の要道にして玉體安穏を禱り奉るを以って本旨とす。
我が宗祖弘法大師初めて太元帥明王の儀軌を請来し常暁和尚重ねて尊像壇儀を伝え 承和七年常暁太元阿闍梨の宣旨を蒙り 勅を奉じて此の秘法を修し奉れり 越えて文徳天皇の仁壽元年十二月特に國典と定めらる 爾来 天皇御即位の時は必ず宮中に於て 勤修せしめらるるを以って恒規と定めさせ給えり
斯くて歴朝の聖帝叡信浅からず世々嫡々相承の阿闍梨に勅して之れを勤修せしめられ明治四年に至るまで連綿として断ゆる事なかりき 而して大正四年十一月 先帝御即位の御大禮を行われせ給うや 斯法を教王護国寺灌頂院に於て修せしめらる 伏して惟みるに今上陛下聖徳天の如く億兆齊く仰ぐ今や将に即位の大禮を行わせ給わんとす
小衲皇恩の萬一に報い奉らんが為に謹んで歴代聖帝の叡信を仰ぎ仏
祖嫡伝の行軌に則り玉體安穏寶祚無窮天下泰平萬民豊楽を祈りて皇 業愈々隆昌に國運益々旺盛にして徳澤天下に普く頌音四海に溢るるを期し奉らんと爾云う
令和四年 元旦 順和 記」
この祈りの大法は、醍醐寺塔頭理性院に於いて受け継がれてきました。
昭和天皇の時は、真言宗各本山管長総出仕のもと東寺教王護国寺灌頂院に於いて昭和3年に奉修され、盛儀を見ました。
平成の御代(みよ)は、社会の悪弊により真言宗各派総大本山会が辞退したため、理性院一山に於いて静かに勤めました。
今般、令和の御代は、醍醐寺が山はもとより宗団挙げて奉修いたします。是非この機会に御出仕をいただきたくご案内致します。
私達は、天皇即位により、新しい元号の時代が始まりました。この時にあたり、自分自身の価値判断の基準になっている「霊性的自覚」について再確認したいものです。
人間の理性的判断を分別と考えるならば、分別は欠くことのできない人間生活の営みです。この分別が、一人の神様の上での判断と、東洋を中心とする多神教・仏教的理念の上での分別とでは大きな差があります。東洋的、仏教の立場からなら、世界中にある知識の枠組みを超える可能性を秘めているのです。
最近私は、9・11同時多発テロ事件以後の二人のフランス人哲学者の発言に心を再び惹かれました。
レジス・ドブレ先生は、『神』と題する著書の中で「一神教を生んだ砂漠の民が、摩天楼に自分たちの記憶を思い起こさせた」と書き、神の起源について論ずる中で「なぜ米国が傲慢に振る舞うかを解くカギは、神の存在にある。
米国は物質的・合理主義の国のように思われているが、実は、神の祝福を受けて選ばれた特別な国であるという精神主義に支えられている」と著述され、この章の終言として、「二千年も前に発明された神が、なぜいま、われわれの間に居続け流のか。この問題を抜きにしては、世界は読み解けない」と、新たな思想体系の構築を模索する発言をしています。
もう一人のジャック・デリダ先生は、パリ市内にある社会科学高等研究院で一年のテーマを『けものと主権』と題してゼミを開かれました。
これは現在を「新たな世界内戦の時代」と捉えての発言です。
「オオカミ(戦争を中心とする恐怖の象徴)は、足音を立てずに近づいてくる。このオオカミはテロリストのようにも見え、権力者とも見える」と受講者に呼びかけ、
「動物と人間を区別するものは何か?人間の恐怖とは何か?などと根元にさかのぼって考えなければならない問題は多い。作業は急がなくてはならない」と問題の提起をしています。
そして、この二人の哲学者の提言に世界中の哲学者、政治学者、言語学者、社会学者が小論文を寄せています。いずれも「西欧的な知識の合理性の行き詰まり」を強調しています。
ここで、強く感じるのは、大きなうねりの中、音も立てずにひび割れていくような現実を前に、伝統的な知識の枠組みを再検討し、枠を乗り越えた新たな思想の構築の模索が、ヨーロッパ社会に起きて、その広がりを見ることができることです。
それは人間観や、宗教観の根源的な問い直しに他ほかなりません。
これから私たちみんなが、真の〝心の時代〟到来とともに思えるような第一歩を踏み出すためにも、〝神から示し与えられた心〟と認識する前に、神様と自分の心の間に〝人が生きるために〟という人間観を入れて、人が共々に生きるために心を運ぶ「霊性的自覚」の基に、心豊かな生活をしましょう。