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品川寺の歴史 品川は、歴史の古い町です。東に海を、西に肥沃(ひよく)な農地を有し、海の幸、野の幸にめぐまれ、人々は豊かな平和な生活をして来ました。 ![]() 1200年、中世といわれた時代からは、「港町」として栄え、江戸時代(1603年〜)になると、東海道五十三次の第一番目の宿場町となり「旅人の町」として最も栄えました。当時の人口は、6000人、家数1200件を数え、そのうち約130件前後は、「旅篭屋(はたごや)」でした。 品川寺の歴史は、町そのものです。遠く、大同年間(806年〜810年)に開創された品川で最も古いお寺です。 本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年〜835年)が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利(あしかが)・上杉(うえすぎ)の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。その後、太田道灌が、この地に勢力を伸ばすと、道灌は「水月観音」を信仰し、あわせて自分の持仏である「聖観音」像をここに移し安置しました。そして、長禄元年(1457年)道灌は、江戸城を築き、城に移るとき、この地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しました。 不幸にも、永禄9年(1566年)、甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は、焼き払われ、観音堂も焼かれ、「水月観音」像は、甲州に持ち出されました。しかし、持ち帰った二人の武士は、まもなく発狂し、それを聞いた信玄は、一人の「聖(ひじり)」山伏(やまぶし)に頼み、水月観音像を品川の観音堂の地に持ち帰えらせ、草堂を造り、安置させました。 ![]() この間、明暦3年(1657年)9月18日には、弘尊上人の発願により、徳川三代の将軍、家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)の供養のために大梵鐘が、京都三条の鋳物師(いものし)・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)により、鋳造され、四代将軍・徳川家綱によって寄進されました。この大梵鐘は、徳川三代の将軍の号、東照宮(とうしょうぐう)、台徳院殿(だいとくいんでん)、大猷院殿(だいゆういんでん)と、京都七条の大仏師・康斎(こうさい)による6体の観音像が浮き彫りにされ、さらに、観音経一巻が陰刻されており、「武蔵風土記(むさしふどき)」、「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」には『世にもまれなる梵鐘』と記されている銘鐘です。 ![]() 境内には、樹齢400年の大銀杏(おおいちょう)と、その下に2メートルの自然石に釈迦如来(しゃかにょらい)の種字(しゅじ)「バク(baku-)」を彫り、「光明石(こうみょうせき)」と称して、江戸時代の民間信仰を代表する見事な庚申塔(こうしんとう)も、当時の繁栄を今に伝えています。 江戸時代を通し。品川寺は、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の3つを、お寺の三宝(さんぼう)として、大切にし、町の人々の深い信仰と、東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛されました。 時は移り、江戸時代の末(1850年代)から明治維新を迎えるころ、寺域は全く荒廃し、大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみとなりました。 大正5年(1916年)順海和上(じゅんかいわじょう)が入山、行方不明の大梵鐘を捜すなか、、品川寺の復興計画もめぐらされました。大正8年(1919年)大梵鐘は、スイス国ジュネーブ市アリアナ美術館にあることを確認、同12年(1623年)には、観音堂が完成、同15年(1926年)5月18日に順海和上は、品川寺第三十世住職として晋山(しんざん)しました。以後、計画は順調に進み、昭和5年(1930年)5月5日には、大梵鐘がジュネーブより贈還され、これを期に、鐘楼(しょうろう)、会堂(かいどう)、客殿、拝殿(はいでん)、会館と建立され、今日に至っています。 |