修験道

修験道のこころ

 修験道。私たちは、山伏とも呼んでいる。
 古代から連綿と続く山岳信仰を中心に、平安時代の初期、大和(奈良県)の葛城山(かつらぎさん)を中心に修行した「役小角(えんのおづぬ)」(神変<じんぺん>大菩薩)の個人的信仰や修行・行動を有力な基盤として、時代の流れの中で社会的な思想や信仰形態を背景に自然発生的に組み立てられてきた祈りの世界、それが修験道である。
 そこには、他の宗教にみられるような創唱者の思想や信仰を土台として立教・開宗された形跡はみじんもない。所依の経典もなく一定した儀礼もなしに、ただいえることは、密教の伝来とともに密教を手がかりとして徐々に理論的な意味づけがなされたり、山伏の二文字を教義的に解説したり、法具や衣・袈裟(けさ)に深い意義づけをして山岳信仰を教理的に裏付けてきた。日本古来の山の信仰を縦糸とし、密教が横糸の役目を果しつつ、そこに集う人々の思いで織り上げられた布、そこに修験道の信仰形態を見い出す。汎神的で、象徴的な密教に対し、修験道は軌を同じくしているが、実践面からみると、教相と事相の統一を強調する密教よりも、教相より事相、理論より実修を優先する修験道は密教以上に徹底している。寺院仏教のように拘束されることもなく「生きた宗教」「生きる宗教」として、その伝承は脈々として今日に受け継がれている。
 ともすれば現代とはまったくかかわりのない、歴史上の一宗教、一信仰形態のように解されるが明治初年一旦廃止された修験道であるにもかかわらず、今日でも多くの人々の心と結びつき、その信仰運動が行なわれている。
大峯山  家にありながらだれでもが参加でき、修行することが可能で、一人の良き先達(指導者)のもとで野性的な荒行を中心に、自分自身の中に秘められているところの無限の可能性の開発と、その実現を願い修行は行なわれる。ややもすれば迷信の伝道者のごとくいわれる修験道の行者は、今も昔も変わらず社会の一隅で悩み苦しむ人々と手をたずさえながら、その時々の切なる願いを我が痛みと受けとめ、喜びを我が喜びとしながら一心に祈る姿は、原始的で野性的な荒行修行で得た人間性に根ざした心のかよった信仰の世界である。
 この信仰形態の伝承は、『続日本紀』巻一・文武天皇三年(六九九)五月二十四日の記述にはじまる。さらに『日本霊異記』の「孔雀王の呪法を修持し異験力を得て、現に仙となって天を飛んだ話」第二十八(上巻)により説話としての役小角の伝承を生み、時代時代の説話伝承をもたらしている。これらの記述伝承で見のがすことのできないのが、役小角の母への思いである。正史としての『続日本紀』の記述の中で「…水を汲み薪を採らしむ…」と述べているのは、法華経提婆品(だいばぼん)にみる「汲水採薪」の仏道修行者の山林修行の行為として論述することもできるが、役小角の母への思いと見たい。
大峯山  また、奈良県生駒の鳴川千光寺の縁起記述にも注目したい。「鳴川の里に入り小さな草堂で荒行を続ける小角を思い母も供にこの地に住し、さらに小角が大峯山に入ると母は鳴川にとどまり小角の無事を祈った」との伝承である。これにより、鳴川の草堂は「元の山上」「女人山上」と呼ばれるようになり、白鳳十二年(六八四)天武天皇の勅願により「千光寺」と号した。この縁起伝承は役小角を思う母の祈りの姿を「野に伏し、山に伏し我、神仏とともに在り」と修行する役小角の世界を、醍醐寺開山の聖宝(しょうぼう)・理源大師(八三二〜九〇九)は、「霊異相承(れいいそうじょう)」という、大きな祈りをもって密教の修行・修法を中心に修行形態を整えた。そこには、大峯山を「一乗菩提正当の山」ととらえ、一乗真実の山で、二乗・三乗の方便の山でないと理解し、修験道の真実を「実修実証」の四文字で解き明している。一乗真実の山で全智全能を結集し修行する姿に「実修」の二文字を置き「入りて学ぶ」と解し、「実証」の二文字に移り行く社会の事象をとらえる時「出でて行なう」という修験道の神髄を明かすことができる。
 思うに、日々世俗的な生活を営み続ける修験行者が、密教の崇高な祈りの世界を基調とする信仰の中で自分自身、特異的な存在を強調することなく、静かに自・他の願いを祈りの中で受け止めるとき、おのずと修験道のこころは明らかになる。
 大峯山の修行、「女人結界」に女性への思いを起こすことなく、随一おのが母への思いをいだき祈り、修行するとき、おのずと「母の祈りの世界へ」心を馳せることができる。一歩一歩、山をめぐるとき、身体と共に心も歩み、「唯、物事を知っている」だけでなく「考へ行動する」必性を思わずにはいられない。
 心に力を持てば、そこに行動・実践は生れる。心に力をそれが修験道の心です。



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