神変

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弘法利生

2021年01月12日

御即位の一連の行事を国民の祝福のうちにつつがなくおさめられ、心新たに令和三年の新春を寿ぎます。今年は、醍醐天皇が空海上人に大師号を下賜されてから1100年の年にあたります。

観賢僧正が大師号の下賜を願い出た際、本覚大師という名を奉請されましたが、醍醐天皇は空海上人のご業績を称え、弘く法を伝えるという意味から「弘法利生」という言葉の中の「弘法」という二字をとり、大師号をお贈りになられました。

今日では、醍醐天皇の意図とされた、「弘法利生」というお言葉をなかなか聞く機会が少なくなりました。「大師未だおわします」「衆生済度してやまじ」は今日の大師信仰の根本です。

醍醐寺は、空海上人の弟である真雅僧正の弟子にあたる聖宝僧正が准胝観世音菩薩と如意輪観世音菩薩の二体の観音像を謹刻され、この地に小さな庵を建てて開創されました。この小さな庵に、時の帝・延喜帝が大きな御請願を込められました。ご自分の母方の祖父母が、准胝観世音菩薩に願をかけられた結果、母君の胤子がご自分(延喜帝)を身ごもられたという、出生にまつわるお話をお聞きになって、当時お子様に恵まれなかった延喜帝は、一心に准胝観世音菩薩に祈られ、穏子皇后との間に二人の皇子、のちの朱雀天皇、村上天皇がお生まれになりました。

延喜帝はこのご信仰から、ご自身の名を「醍醐」と名乗られました。そしてそれ以来、「醍醐天皇」とお呼びするようになりました。

醍醐天皇の御誓願は大きく注がれました。ご自身が祈りを捧げられた准胝観世音菩薩の霊験のもと、聖宝様に薬師如来をおまつりし、人々の病の癒しを祈ることを命じられました。また、五大尊像をおまつりし、仁王法を修することにより国の安泰、人々の平和を祈ることを進言されました。

空海上人を思慕したのが聖宝理源大師であり、聖宝理源大師のお心をそのままに、わかりやすく説いたのが観賢僧正でした。聖宝理源大師は霊性豊かな方で、目に見えないものへの呼びかけを大切にされました。

「観賢僧正は、お大師様の休まれている御廟へと入っていかれました。そこでお大師様のお姿を見ると、髪とひげが伸びていたので剃って差し上げ、新しい衣にお着替えしていただいた」とのお話が残っています。

~人が人に対して祈る~

多くの現代人にとって、祈りの原点になっているのが「人が人に対して祈り、命が命に対して祈る」という行為です。世界の諸宗教でも、人を虐げられると神ではなく人に祈る、「大師いまだおわします」の本質はここにあります。亡くなった命に対しても、生きているままにお仕えするのです。

『千の風になって』という歌があります。2001年9月11日のニューヨークでの『米中枢同時テロ』の現場で、父親を亡くした少女が朗読した詩です。

『A THOUSAND WIND』十二のセンテンスからなる詩です。

「Do not stand at my grave and weep,

I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow.」

 

非常にやさしい言葉で呼びかけています。そしてその中で、私が心を引かれた言葉の一つに

「I am the gentle autumn’s rain.」という言葉があります。

 

そして最後には、

「Do not stand at my grave and cry. I am not there, I did not die.」

という言葉で本当に優しい言葉で、優しい心を伝えています。

「私のお墓の前で 泣かないでください そこに 私はいません

死んでなんかいません」

 

ここに、お大師様の祈りが表れています。この歌が共感を呼んでいることを一つとっても大師信仰は間違いなかったのだと思います。

少しお考えいただきたいのです。この歌の伝える心は、私たち日本人が長い間培ったところの弘法大師のご信仰、そして聖宝理源大師のお心の現れのように思えてなりません。

 

どうぞ、そのような意味で私たちは今起きている社会の大きなうねりの中にあって、是非、優しい言葉で、優しい心を伝えるよう努力していきたいものです。そして「弘法利生」私たちは共々に「国境を超えてヨーロッパ社会に、アメリカ社会に、そして日本の社会の中にも、人間観や宗教観の根本的な問い直しが存在する」、これをきちっと読み取る必要があることを自覚していただきたいのです。

真言宗醍醐派管長 仲田 順和