仁王会
法要

 仁王会は本来、『仁王般若波羅蜜経』を講讃して、鎮護国家、万民豊楽を祈願する朝廷における大法要のことである。我が国においては、斉明天皇六年(六六〇)五月に、天皇即位による一代一講大仁王会が修せられたのに始まる(『日本書紀』二六)。爾来、たびたび修せられ、清和天皇の時代(八五八〜八七六)に一代に一度仁王会を行う制度が確立し、鎌倉時代末まで朝廷(大極殿)で修せられた。なかでも、大同三年(八〇八)三月に、疾病流行のため七日間の法要が修せられた記録が、『日本記略』前篇十三にあるが、仁王会が民衆のために修せられたはじめと思われる。
仁王会
 真言宗における仁王会は、弘仁元年(八一〇)、弘法大師空海の上奏によって高雄山寺で厳修されたのがはじめで、天長三年(八二六)正月高野山慈尊院で、聖体安穏、万民豊楽のため修せられて以来、年中の行事として行われている。高野山では、中世以後、金堂において百口の僧侶を請じで、百巻の『仁王経』を読誦して百僧会とも呼ばれている。醍醐寺(貞観十六年〔八七四〕)においても開創以来今日まで、上醍醐・五大堂において、毎年二月十五日から七日の前行、二月二十三日には金堂に於いて祖師の遺訓にのっとって、仁王会の大法要を厳修する。とくに開山聖宝(しょうぼう)理源大師は、修験道大峯山(おおみねさん)中興であることから、多くの修験者が随喜するようになり、聖体安穏・万民豊楽はもとより、民衆の七難即滅・七福即生の一大祈祷会となった。そして時とともに、民衆の広い信仰を集めるようになり、いつとなく「五大力尊(ごだいりきそん)仁王会」と呼ばれ「五大力さん」の愛称で知られるようになった。朝廷の行事であった仁王会も、修験道(山伏)の本山である醍醐寺においては、いきおい、庶民参加の祈祷会として伝承されている。
 五大力尊の本尊観は、五仏・五菩薩・五明王・五方天を説き、自性輪身(じしょうりんじん)として五仏、正法輪身(しょうぼうりんじん)として五菩薩、教令輪身(きょうりょうりんじん)として五明王、羯摩輪身(かつまりんじん)として五方天を配している。
 そして、醍醐三宝院憲深方(けんじんがた)の憲深僧正の『幸心鈔』三・「仁王経法の事」に
師云はく、此の法の本尊は異説不同なり、広沢(ひろさわ)方は多分金剛波羅蜜多菩薩と習ふ、勧修寺(かじゅじ)流は不動明王と習ふ、但し左に輪を持す、而して醍醐三宝院流に於いては、正法輪身の金剛波羅蜜多菩薩と、教令輪身の不動明王と和合せしむる尊なりと習ふべし、この合体尊と習うの儀、尤も甚深なり云々。
と記されていることから、醍醐寺においては、五大力尊の本尊を五大堂中央の不動明王としている。
 さらに『仁王般若波羅蜜経』下、護国品(ごこくぼん)に
国土乱れんと欲し、破壊劫焼し、賊来りて国を破らんとする時に当たり、当に百の仏像、百の菩薩像、百の羅漢像を請じ、百法師を請じて般若波羅蜜を講ぜしめ、百師子吼高座の前に百燈を燃じ、百和合香を焼き、百種色の花を以て三宝に供し、三衣什物を法師に供養し、小飯中食も亦復た時を以てすべし。一日二時に此の経を講読せば、其の国土の中に百部の鬼神乱る。鬼神乱るが故に万民乱れ、賊来たりて国を劫め、百姓亡喪し、星道日月時を失し度を失す。若し、火難水難風難、一切の諸難にも亦応に此の経を講読すべし云々。
と『仁王経』講読の功徳が説かれ、これを依所として五大力尊仁王会は、その信仰形態において大きく展開してきた。すなわち、国家行事ともいうべき仁王会が、修験道の仲立で庶民の切々な願いを受け入れるようになり、「賊来たりて国破らん」は盗難と説かれ、以下は、一切身に振りかかるあらゆる災難と受け止められ、無事息災、一家安泰隆昌への信仰となり、現在では、交通安全・学業成就・受験成就さらには、西国十一番上醍醐じゅんてい准胝(じゅんてい)観音信仰も加わり、授児安産への信仰までにふくらみ、「五大力さん」の愛称を生み出した。
仁王会
 この「五大力尊仁王会」の法要は、現在、以下の順序で種々の行事を含み開催されている。先ず、毎年二月十五日より二十一日までの七日間一日三座二十一座の前行法要が、五十名の前行僧により上醍醐五大堂において厳修される。本堂内正面に五大尊(中央不動明王・東方降三世夜叉(ごうざんぜやしゃ)明王・南方軍荼利(ぐんだり)夜叉明王・西方大威徳(だいいとく)夜叉明王・北方金剛夜叉明王)が奉安される宝前に高座の密壇が安置され、一面器の荘厳をもって前行大阿闍梨(ぜんぎょうだいあじゃり)が修法を行う。正面向かって右側に般若壇、左側にごま護摩壇があり、それぞれ般若壇では『仁王経』が読誦され、結願(けちがん)法要では護摩壇で息災護摩が修せられる。(今回の修法は、両脇壇共、般若壇とし仁王経を読誦する。) 前行は、咒立(じゅだ)の仁王会として息災で修法される。法要は、開白(かいびゃく)を金剛界で、二座目胎蔵界、三座目金剛界と交互に修法され結願の二十一座目は金剛界に当たる。前行僧は大阿闍梨の修法に従って、前讃・唱礼(しょうれい)・仏眼大咒(ぶつげんだいじゅ)・般若菩薩咒・一字金輪咒・後讃・回向と読誦し、阿闍梨の発音(ほっとん)で、「発願」加持作法を行って一座の前行法要を修める。
 七日間の前行結願の二十一日、前行僧により上醍醐五大堂より「五大力尊御影(みえ)」が醍醐寺一山の本堂である金堂に遷座される。さらにこの日、重さ百キロの紅白の大鏡餅一重ね十組が京都市内を連行(れんぎょう)の後、金堂に奉納される。正面に「五大力尊御影」奉安の唐櫃(からびつ)、右側般若壇前に「般若菩薩」の尊影を、左側に護摩壇を安置する。中央は、大壇、四面器で常の大法を修する如く荘厳する。二十三日、当日は咒立法要で金剛界の修法を行す。阿闍利作法は前行作法と同じであるが法要は、庭讃(ていさん)・唄(如来唄<ばい>)・散華(さんげ)・対揚(たいよう)・唱礼と続き前讃・仏眼大咒・般若菩薩咒・一字金輪咒・後讃・回向と読誦する。
 法要が始まると、この日当日限りの「五大力尊御影」が多くの信心に授与される。また、柴灯(さいとう)護摩道場では修験道の秘法「柴灯大護摩」が終日修行される。当日の最大の行事は、「五大力餅、持ち上げ力競べ」である。一会の法要の後、さがる五大力餅を待ち受ける参詣者は、男性は一重ね一五〇キロ、女性は七十五キロの鏡餅を一人で持ち上げ、その持続時間で力をきそう。勝者には持ち上げた鏡餅の上部が授与され、ほかは「献供米(けんぐまい)」奉納者に等分に授与される。
 この「五大力さん」も今日では、全国的に「五大力講」が組織され、当日代表者が参詣して、御影をまとめて受け、講員に授与している姿も見られる。
 この御影は、各家の表や裏の出入口とか、二階の窓口などにはられて、一身一家の守護としてまつられ、とくに盗難除災難の身代り御霊符(ごれいふ)として信仰されている。

(仲田順和)

※ 五大力さんについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
醍醐寺ホームページ−「五大力さん」


Back